少女地獄

何でもない

  1. 足下 っか 足下,您。(二人称。自分と同等の地位または下位の相手を敬って,あるいはあらたまって呼ぶ語。貴殿。)
  2. 先般 せんぱん 前几天,上次,前些日子。(さきごろ。このあいだ。せんだって。) 拝眉 はいび 拜谒,见面,会晤。 貴兄 きけい 仁兄,你,您。(対等の、またはそれに近い男性の相手に対して敬意をこめて呼ぶ語。多く手紙文に用いる。貴君。) 小生は先般、丸の内倶楽部の庚戌会(こうぼくかい)で、短時間拝眉の栄を得ましたもので、貴兄と御同様に九州帝国大学、耳鼻科(じびか)出身の後輩であります。昨、昭和八年の六月初旬から、当横浜市の宮崎町に、臼杵(うすき)耳鼻科のネオンサインを掲げておる者でありますが、突然にかような奇怪な手紙を差し上げる非礼をお許し下さい。 
  3. 貴下 か 足下,阁下,您。(二人称。手紙文などで,主に男性が同輩や目下の者を敬っていう語。あなた。) あの名前の通りに可憐な、清浄無垢(せいじょうむく)な姿をした彼女は、貴下と小生の名を呪いながら自殺したのです。
  4. 絵巻 えまき 画卷,手卷,卷轴,画轴。 却って一種の戦慄すべき脅迫観念の地獄絵巻を描き現わして来ました彼女は、遂に彼女自身を、その自分の創作した地獄絵巻のドン底に葬り去らなければならなくなったのです。
  5. 無間地獄 むげんじごく 八大地獄の第八、阿鼻地獄のこと。 その地獄絵巻の実在を、自分の死によって裏書きして、小生等を仏教の所謂、永劫の戦慄、恐怖の無間地獄に突き落すべく……。
  6. 逐一 ちいち その心理作用に対する彼女の執着さを、小生は貴下に対して逐一説明し、解剖し、分析して行かねばならぬという異常な責任を持っておる者であります。
  7. トウト 迷迷糊糊,似睡非睡状。 私は、外来患者の途絶えた診察室の長椅子に横たわって、ガラス窓越に見える横浜港内の汽笛と、窓の下の往来の雑音をゴッチャに聞きながらウトウトしておりますと、突然に玄関のベルが鳴って、一人の黒い男性の影が静かに滑り込んで来ました。
  8. 唖 おし 哑巴,哑口无言。(口がきけないこと。) 紙片 しへん 纸条、纸片。(かみきれ。) そこで私は滑稽にも……サテは唖の患者が来たな……と思いながらその紙片を取り上げてみますと、意外にも下手な小学生じみた鉛筆文字でハッキリと「姫草ユリ子の行方を御存じですか」と書いて在るのです。
  9. 恭しい うやうやしい 恭恭敬敬的,彬彬有礼的。 相手の紳士はそうした私の顔を、その黒い、つめたい執念深いめつきで十数秒間、凝視しておりましたが、やがてまたチョッキの内側から一つの白い封筒を探り出して、恭しく私の前に置きました。……御覧下さい……と言う風に薄笑いを含みながら……。
  10. 気高い けかい 高尚,高雅,崇高。(品格が高い。上品である。高貴である。) ですから、その奥様方の気高い、ありがたい御恩の万分の一でも報いたい気持から妾は、こんなにコッソリと自殺するのです。
  11. 霊魂 れいこん わたくしの小さい霊魂はこれから、お二人の御家庭の平和を永久に守るでしょう。
  12. 特高 とっこう 「特別高等警察」の略。 この手紙はすでに田宮特高課長に渡しました実物の写しで、貴下にお眼にかけたいためにコピーを取って置いたものですが、これを初めて読みました時も私は、何の感じも受けずにいる事が出来ました。
  13. 書置き かきおき 留字,留言,留简。(置き手紙)。 遗书,遗言。(遺書。) キチンと綺麗にお化粧をして、頬紅や口紅をさしておりましたので、強直屍体とは思われないくらいでしたが……生きている時のように微笑を含んでおりましてね。実に無残な気持がしましたよ。この遺書は枕の下にあったのですが……
  14. 敏速 びんそく 敏捷,灵敏。(すばやいこと。敏捷。) 曼陀羅院長は田宮課長の敏速な手配にもかかわらずトウトウ捕まらなかったらしく、今日の日が暮れるまで何の音沙汰もありませんでした。
  15. 移牒 いちょう 移牒,移交,移转。(管轄の違う他の役所などへ文書で通知すること。また、その通知。) 後日 ごじつ しかし神奈川県庁から帰りがけに病院に立ち寄って、私の提供した姫草ユリ子に関する新事実を聴き取った田宮特高課長は、容易ならぬ事件という見込を付けたらしく即刻、東京に移牒する意向らしかったのですから、彼女の死に関する真相も遠からずハッキリして来る事と思いますが、それよりも先に小生は、一刻も早く彼女に関する事実の一切を貴下に御報告申し上げて、後日の御参考に供して置かねばならぬ責任を感じましたから、かように徹夜の覚悟で、この筆を執っている次第です。
  16. 昨春 さくしゅん 去春,去年春天。 何よりも先に明らかに致して置きたいのは彼女……姫草ユリ子と自称する可憐の一少女が、昨春三月頃の東都の新聞という新聞にデカデカと書き立てられました特号標題(みだし)の「謎の女」に相違ない事です。
  17. 監禁 かんきん 监禁。(人を一定の場所に閉じ込め、脱出できないようにすること。) 妾は只今××の××という家に誘拐、監禁されている無垢の少女です。只今、魔の手が妾の方へ伸びかかっておりますが、僅かの隙間を見て電話をかけてるのです。助けて下さい、助けて下さい。
  18. 真に迫る しんにせまる 逼真。(表現されたものが現実のようすとそっくりに見える。) 憤慨 ふんがい 气愤。愤慨。(いきどおりなげくこと。ひどく腹をたてること。) と言う意味の、真に迫った、息絶え絶えの声を送って、当局の自動車をとんでもない遠方の方角違いへ逐い遣ってしまったのです。彼女はかようにして、それから度々警察を騒がせましたので結局、同じ女だと言う事がわかって、極度に当局を憤慨させ、新聞記者を喜ばせた……というのが事実の真相です。
  19. 抜き書き ぬきがき 以下は私の日記の抜書を一つの報告文体に作り上げたものです。
  20. 無作法 ぶさほう 没规矩,粗鲁。(礼儀作法にはずれていること。また、そのさま。ぶしつけ。) なおまた、敬語を抜きにした記録体に致しましたために、無作法にわたるような個所が出来るかも知れません。
  21. 如実 にょじつ 取り纏める とりまとめる 归拢,汇总。整理,归纳到一起。(整理して、一つにまとめる。) いずれもその時の私の心境を率直(そっちょく)、如実に告白致したいために、日記の記録する通りに文章を取りまとめたものですから……。
  22. 入用 にゅうよう 需要,需用;费用。(あることをするのに必要なこと(費用)。) 「コチラ様では、もしや看護婦が御入用ではございませんかしら……」
  23. 一旗を上げる ひとはた 开辟新的事业。 いいえ。いつも手紙を往復しておりますの。それからタッタ一人の兄も東京で一旗上げると言って今、丸ビルの中の罐詰会社に奉公しております。
  24. 髪結い かみゆい 梳发,梳头;梳头发的人,梳发店。(髪を結うこと。また、それを職業とする人。) 下谷で髪結いをしている伯母さんに頼んでおりますの。
  25. 一読 いちどく 读一次,念一遍。(ひと通り読むこと。ざっと読むこと。) 幾多 くた 几多,许多,多数。(数多く。たくさん。多く助詞「の」を伴って体言を修飾する。) 笑え……私等のセンチの安価さを……誰でもこの問答を一読しただけで、彼女の身元について幾多の矛盾した点や不安な点を発見するであろう。
  26. 吸い寄せる 吸引,招引。(吸ってひきよせる。気持や視線などをひきつける。) 彼女の容姿と言葉付の吸い寄せるようなあどけなさ。
  27. 追々 おいおい 逐渐,渐渐地。(引き続いて。つぎつぎと。) 妾もアンタがその気ならと思っていたとこよ。追々お客様も殖えるでしょうから。
  28. 肝を潰す 吓出一身冷汗。(非常に驚く。肝を消す。肝を減らす。肝を飛ばす。) とんでもない美人にしてしまった……と肝を潰したくらいであった。
  29. 手練 しゅれん 熟练,灵巧,娴熟。 永い年月の間、幾多の手術に当って来た老成の看護婦でも、こうした手術者の意図に対する敏感さと、手練の鮮やかさを滅多に持ち合わせていないであろう事を、私はシミジミ思わせられた事であった。
  30. 草木も眠る くさきもねむる 夜深人静。(夜がすっかり恒更けて、すべてのものが寝静まることのたとえ。) または所謂、草木も眠る丑満時(うしみつどき)に聞き分けのない患者から呼び付けられる事が何度も何度もある事を、当初から覚悟していた。これは医師として私的に非常な苦痛を感ずる事柄に相違ないのであるが、しかし出来るだけ勤めて遣やろう。
  31. 博する はくする 博得,获得,取得,赢得,得到。(獲得する。) 臼杵病院の姫草さんと言う名前が、私の名前よりも先に患家の間に好評を博した事は、決して不自然でなかった。
  32. 超越 ちょうえつ 彼女の持って生まれた魅力は事実、男女、老幼(ろうよう)を超越したものがあった。
  33. 帰結 きけつ 归结,归宿。(物事が種々の経過の後、おちつくこと。また、そのおちつく所。おわり。結着。) 激増 げきぞう さらに驚くべき事実は(実は当然の帰結かも知れないが)彼女のお蔭で私の患者がメキメキと激増した事であった。
  34. 甲乙丙丁 こうおつへいてい 受診に来る患者の甲乙丙丁が、何につけても姫草さん姫草さんと尋ね求める態度を見ると、ちょうど臼杵病院の中に姫草ユリ子が開業をしているようで、多少の自信を腕に持っている私も、彼女のこうした外交手腕に対しては大いに謙遜の必要を認めさせられていた次第であった。
  35. 折も折 おれもおれ ちょうどその時。正好那時。 折も折、ちょうどそのさ中に、実に奇妙とも不思議とも、たとえようのない事件が彼女を中心にして渦巻き起って、遂に今度のような物凄い破局に陥ったのであった。
  36. 取次 とりつぎ 传达,转达。(とりつぐこと。また、その人。) 病院の姫草ユリ子から取次電話がかかって来た。
  37. 大急ぎ おおいそぎ 紧急,火急;匆促,匆忙。(たいへん急ぐこと。また、そのさま。) 「ウン大急ぎで届けてくれ。ありがとう」
  38. 清酒 せいしゅ 清酒;日本酒。(もろみを除いた、澄んだ酒。日本酒。) 彼女の郷里からと言って五升の清酒と一樽の奈良漬が到着したのは、やはり、それから間もなくの事であった。
  39. レッテル 商标;标签,标记。(商品に製造会社などが貼りつける紙札。商標。ラベル。トレードマーク。) 
  40. スコット mascot最喜爱的宝贝;吉祥物(人偶或动物等);福神。(幸運をもたらすものとして、身近に置いて愛玩する小動物や人形など。) 姫草ユリ子と名のるマネキン兼マスコットに絶大の感謝を払わなければならなかった。
  41. 好事魔多し こうじまおおし 好事多磨。(よい事にはとかくじゃまがはいりやすい。) この辺で止めて置けば万事が天衣無縫(てんいむほう)で、彼女の正体も暴露されず、私の病院も依然としてマスコットを失わずにすんだ訳であったが、好事魔多し、とでも言おうか。
  42. 是非もない 不得已,没有办法,无可奈何。(やむを得ない;仕方がない。) 院も依然としてマスコットを失わずにすんだ訳であったが、好事こうず魔ま多し、とでも言おうか。彼女独特のモノスゴイ嘘吐きの天才が、すこし落ち着くに連れて、モリモリと異常な活躍を始めたのは、是非もない次第とでも言おうか。
  43. 深入り ふかいり 深入,过于干预,过分过问。(深く入り込む。深くかかわる。) 彼女は平気で……否……むしろ得意そうに白鷹先生の話に深入りして行った。
  44. 陰ながら かげながら 暗自。(見えない所で、または表立たないで、ある人のためにするさま。) 私はスッカリ彼女の話に引っぱり込まれてしまった。蔭ながら白鷹先生に敬意を表すべく両手を揉み合わせたものであった。
  45. 茶目 ちゃめ 天真的恶作剧;鬼头鬼脑;爱开玩笑;好恶作剧(的人)。(子供っぽい,愛敬のあるいたずらをする・こと(さま)。また,それの好きな人やそうした性質。) 「ふうん。僕は茶目だったからなあ。お宅はどこだい」
  46. 近眼 きんがん 近视,近视眼。 彼女は、そう言う私の顔をすこし近眼じみた可愛い瞳でチョット見上げていたが、何故か多少、悄気たようにうなだれて軽いタメ息を一つした。
  47. 萌芽 ほうが 萌芽。(芽生え。) この時すでに私は彼女に一杯喰わされていたので、彼女もまた同時に、彼女の生涯の致命傷となるべき悩みの種子を彼女自身の手で萌芽させていたのであった。
  48. 機知 きち 机智,根据情况随机应变的才智。(その場に応じて、とっさに適切な応対や発言ができるような鋭い才知。ウイット。エスプリ。) 要するに彼女の機智が、私をモデルにして創作した……私の機嫌を取るのに都合のいいように創作した一つの架空の人物に過ぎないのであった。
  49. 百尺竿頭 ひゃくしゃくかんとう ところが彼女のこうした不可思議な創作能力は、それからさらに百尺竿頭百歩を進めて、真に意表に出ずる怪奇劇を編み出す事になった。
  50. 技巧 ぎこう こうした技巧と言ったら、それこそ独特の天才と言うべきものであったろう。実に真に迫ったものがあった。
  51. っくばらん 直率,坦率,爽快;心直口快,直言。(遠慮や隠し事をしないで接するさま。気取らないさま。) 「ウン。驚いたよ。恐ろしくザックバランな先生だね。少々巻舌じゃないか」
  52. こえよがし 故意用大声讲。(悪口や皮肉などをわざと本人に聞こえるように話すこと。また、そのさま。) すこしの不自然もなく私に聞こえよがしに言いながら……。
  53. 破滅 はめつ 灭亡,毁灭,败落。(ほろびること。だめになること。その存立が成り立たなくなること。滅亡。) 破滅にひんしている。
  54. 跡形 あとかた 形迹;痕迹;根据。(以前何かがそこにあったことを証拠立てる、なんらかの物。) 本物の白鷹先生と私とが直接に面会する事によってアトカタもなく粉砕される事になるではないか。
  55. 回り合せ 运气。(自然にやってくる運命。めぐりあわせ。) 「そりゃあ会おうと思えば訳はないよ。しかし妙に廻り合わせが悪いね」
  56. インテリ intelligentsia知识分子,知识阶层。 しかもその小包に添えた手紙を見ると紛れもない男のペン字で、相当の学力を持ったインテリ式の文句であった。
  57. 水も漏らさぬ みずももらさぬ 滴水不漏,森严。 もちろん、それは彼女自身から見ると、いかにも巧妙な、水も洩らさぬ筋書に見えたのであろうが、それがアンマリ巧妙過ぎたために、おぞましくも私等一家から、彼女自身の正体を見破られる破目に陥ったのであった。
  58. 卒倒 そっとう 昏倒,晕倒;昏厥,晕厥。 「まあ先生。どうしましょう。タッタ今電話がかかって来たのです。白鷹先生の奥さんが三越のお玄関で卒倒なすったんですって。そうして鼻血が止まらなくなって、今おうちで介抱を受けていらっしゃるんですって……」
  59. 出しゃばる でしゃばる 出风头,多管闲事,多嘴多舌。 「……見ろ。これからソンナ出裟婆った真似をするんじゃないよ」
  60. 虫が知らせる 预感,事先感到。(前もって心に感じる,予感がする) 彼女と私とがコンナ風にシンミリとした憂鬱な調子で言葉を交した事はこの時が初めてだったように思う。何となく虫が知らせたとでも言おうか。
  61. 絶体絶命 ぜったいぜつめい 一筹莫展,无可奈何,穷途末路。 破局 はきょく 悲剧告终,悲惨的结局。不可收拾的局面,破裂的局势。 それともこの時すでに、白鷹先生の事に関して、絶体絶命の破局にグングン追い詰められつつ在る事を自覚し過ぎるくらい、自覚していた彼女自身の内心のやるせない憂鬱さが、私の神経に感じたものかも知れないが……。
  62. 耽読 たんどく 埋头读,读得入迷。(読みふけること。夢中になって読むこと。)  ことわって置くが妻の松子は、女学校時代から「怪奇趣味」とか言う探偵趣味雑誌の耽読者で、その雑誌にカブレているせいか、頭の作用が普通の女と違っていた。
  63. インチキ 出老千。 假货。 お茶の子さいさい おちゃのこさいさい 小事一桩,轻而易举。(とても簡単なこと。) 麻雀の聴牌を当てるぐらいの事はお茶の子サイサイで、職業紹介欄の三行広告のインチキをひまに明かして探り出す。
  64. 是が非でも がひでも 无论如何,务必。(物事の良いも悪いも考えないで、何がなんでも。) 「白鷹先生に、どうしても俺が会えないのが不思議と言えば不思議だが、論より証拠だ。今夜はこれから出かけて行って、是が非でも会って来るつもりだから、いいじゃないか」
  65. 况んや いわんや 何况,况且。((普通の場合(程度)でもこうなのだから)それより極端な次の場合は、改めて言うまでも無いということを表わす。) 況んや俺たちをコンナにまでだます気苦労と言ったら、考えるだけでもゾッとするじゃないか。
  66. 堂々巡り どうどうめぐり 来回兜圈子,在讨论中反复议论而不得出结论;苦思冥想而无果。(思考・議論などが同じことの繰り返しだけで少しも先へ進まないこと。) 「止せ止せ。下らない。お前と議論すると話がいつでも堂々めぐりになるんだ。神秘も糞もあるもんか。白鷹君に会えばわかるんだ。……茶をくれ……」
  67. 迷宮 めいきゅう 実は女風情の言う通りになるのがこの際、少々業腹ではあったが、自動車に乗り込むと同時に気が変って、狭苦しい迷宮じみた下六番町あたりの暗闇を自動車でマゴマゴするよりも、解り易い丸の内倶楽部へアッサリと乗付けたい気持になったからであった。
  68. 新米 しんまい 新手,新参加的人。生手。刚开始做某事项还不习惯的人,还不熟练的人。 私はダンスは新米ではあるが自信は相当ある。
  69. 半間 はんま 零星,不齐全。 笨(人),痴呆(的人)。 コンナ半間な服装で、こうした処へ飛び込んで来て、棒のように立ち竦んでいる私自身が情なくて、腹立たしくなって来たのだ。
  70. 追懐 ついかい 私は九州帝国大学在学当時の白鷹氏の写真を一葉持っている。九大耳鼻科部長、K博士を中心にした医局全員のものである。それを白鷹氏の話が出るたんびに妻や姉に見せて、その時代の事を追懐したものであった。
  71. 今昔 こんじゃく 今更に今昔の感に打たれたが、しかし姫草看護婦から聞いた印象によって、白鷹先生が非常に磊落な人だと信じ切っていたので、イキナリ頭を一つ下げた。
  72. 恢復 かいふく そのうちに血色を恢復した白鷹氏の唇が静かに動き出した。 
  73. 前後撞着 ぜんごどうちゃく 物事の前後が一貫しないこと。つじつまが合わないこと。 とんちんかん 前后不符,自相矛盾。 私は思わず発したこの質問が、如何に前後撞着した、トンチンカンなものであったかを気付くと同時に、自分の膝頭がガクガクと鳴るのをハッキリと感じた。
  74. 脳髄 のうずい 〈解〉脑(髓)。 姫草ユリ子の不可思議な脳髄のカラクリ細工にマンマと首尾よく嵌め込まれかけている私の立場を、この時にチラリと自覚したように思ったのであった。
  75. 書き振り かきぶり 书写姿势、笔势、笔迹。写字时的样子,也指所写的字。 妻が愛読している探偵小説の書き振りを見ても、留守宅に大事件が起るのは十中八、九コンナ場合に限っているのだから。
  76. ムフラージュ 掩饰,掩盖。(本当のことを悟られないように人目をごまかすこと。)  白鷹氏は、キット俺が出席するのを見越して、アンナ風に性格をカムフラージしていろいろな悪戯をしておられるのかも知れない。
  77. 気さく きさく 坦率,直爽,爽快,明朗。 「ええ。とっても面白いキサクな方……」
  78. 同氏 どうし 该氏,他。(すでに名が話題にあがった、その人。同じ名字・氏族。同姓。) これは決して白鷹先生の家庭の神聖を冒涜する意味ではない。私が同氏の人格をこの上もなく尊敬し、信頼している事実を告白するものである事を固く信じているからである。
  79. 寄ると触ると 一有机会就……。聚到一起总是……。(一緒に寄り集まるごとに。何かというと。機会さえあれば 。「―みんなその話だ」) 引き取る ひきとる 退出。(その場から去る。) 取回。(受け取る。) 彼女の看護婦としての優秀な手腕をかねてから嫉視(しっし)している上に、彼女のそうした過分の寵遇(ちょうぐう)を寄ると触さわると妬(ねた)み、羨み始めた仲間の新旧(しんきゅう)の看護婦連中が、とうとう彼女を白鷹助教授の第二夫人と言ったような噂を捏造(ねつぞう)して、やかましく宣伝し始めたので、彼女は、久美子夫人に対して気の毒さの余り、身を退く事をお願いすると、夫人も涙ながらに承知して、分に過ぎた心付を彼女に与えたので、ユリ子はさながらに姉と妹が生き別れをするような思いをして、下谷の伯母の宅に引き取る事になったという。
  80. 如才 じょさい 疏忽,马虎;失策,漏洞。 如才ない方だから案外アッサリと御交際になるに違いないとは思うんですけど、またよく考えてみると、男の方ってものは、コンナ事にかけてはずいぶん思い切った卑怯な事をなさるものですから。
  81. 言わず語らず 不言不语『成』,沉默不语『成』,默默无言『成』。 そうして言わず語らずの間に妾の立場をないようになさるかも知れない。妾を根も葉もないうそ吐き女のインチキ娘に見えるように、お仕向けになるかも知れない
  82. 路傍 ろぼう 路旁;路边。(道ばた。) 石段 いしだん 石级,石阶。(石でつくった階段。石階。) 石段を踏んでのぼる。
  83. 糠喜び ぬかよろこび 空欢喜,落空。(喜んだあとで、実はまちがいによることが分かったこと。) ところがその安心は要するに私の一時の糠喜びに過ぎなかった。
  84. 堕胎 だたい 堕胎,打胎。(胎児を自然の分娩期に先立って人為的に母体外に排出させること。こおろし。) 彼女はそんな身分のある家族の方々のうちの誰かと婚約が出来た……なぞと平気で言い触らしたりなぞしているかと思うと、おしまいには、やはりズット以前に入院した事のある映画俳優か何かのたねを宿したから、堕胎しなければならぬ……と言ったような事を臆面もなく看護婦長に打ち明け(?)て、長い事病院を休む。
  85. あらん限り あらんかぎり 所有,全部,一切(あるかぎり。あるだけ全部。) 行く末 ゆくすえ 将来,前途。(これから先のなりゆき。前途。将来。行く先。) そうして彼女の才能と行末を深く惜しんだものらしく、彼女が首になると同時に自宅に引き取って、あらん限りの骨を折ってうそをつかないように教育した。キリストの聖名(みな)によって彼女の悪癖を封じようと試みたものであった。
  86. 高圧 こうあつ 私はその話を聞いているうちにグングンと高圧電気にかかって行くような感じがした。
  87. 今の今まで 至今,迄今。((多くあとに打消しの語を伴って用いる)たった今まで。) 今の今までお姉さんと、その事ばっかり話していたとこなのよ。
  88. 横付け よこづけ 横靠,停靠。(船や車などの、側面を他のものに接するようにつけること。)  来合わせたタキシーを拾って神奈川県庁前の東都日報支局に横付けて、中学時代の同窓であった同支局主任の宇東(うとう)三五郎をタタキ起して、程近い鶏肉屋の二階に上った。
  89. 代物 しろもの 商品。货物。 宝物。有价值的东西。 东西,人物,货色。称为评价对象的人或物。 「とにかくその娘は吾々の手に合うシロモノじゃないわい。第一、今のような話の程度では新聞記事にもならんけにのう。今から直ぐに特高課長の自宅に行こう」
  90. 人相 にんそう 相貌,容貌。(人の顔つき。容貌(ようぼう)。)人相の悪いおおきな男だろう。
  91. 急テンポ きゅうてんぽ 事情的进展迅速。(物事の進展などが非常に速いこと。また、そのさま。急調子。) 話はダンダンと急テンポになって来た。話のドン底が眼の前に近付いて来たようであるが、果してそのドン底から何が出て来るであろうか。
  92. 職掌 しょくしょう 职务,任务。(つとめ。職務。) 田宮特高課長は、もうグッスリ眠っていたそうであるが、職掌柄、嫌な顔もせずに二階の客間で会ってくれた。
  93. 高手小手 たかてこて 倒背两臂捆绑。 松子はウトウトしたかと思うと高手小手に縛り上げられて病院を引摺ひきずり出される姫草ユリ子の姿をアリアリと見たりしてゾッとして眼が醒めたという。
  94. 赤貧 せきひん 赤贫。(きわめて貧しくて、何も持っていないこと。) 尤も郷里は裕福というお話でしたが、電話と電報と両方で問い合わせたところによりますと、実家は裕福どころか、赤貧洗うが如き状態だそうです。
  95. 構い手 かまいて 照顾的人,照料的人。 東京で一旗上げると言って飛び出した切り、行方を晦ましているそうで、年老とった両親は誰も構い手がないままに、喰うや喰わずの状態でウロウロしているそうです。
  96. 頑張る がんばる 坚持己见,硬主张;顽固,固执己见。(あくまでも主張する。) 自分では二十三だと頑張っていましたがね。むろん女学校なんか出ていないと言う報告ですから、ドコまでインチキだか底の知れない女ですよアレは。
  97. るところ 毕竟,总之,归根结底『成』。(結局。要するに。) つまるところあの女は一個の可哀そうな女に過ぎないのです。
  98. 末永く すえながく 永远,无论何时。 とにかく可哀相な女ですから、末永く置いて遣って下さい。
  99. 嫌疑 けんぎ 嫌疑。(犯罪事実があるのではないかといううたがい。容疑。) けさ十時頃までに迎えに来て下さい。単に赤の嫌疑で引張ったのだが、その嫌疑が晴れたから釈放するのだ。
  100. 言語道断 ごんごどうだん 荒谬绝伦;岂有此理;可恶已极;无以名状。(話にならないほど、正道から外れていること。) 聞いている姉と松子が座に堪えられなくなったほどに甘ったるい、言語道断なものであった状態を、彼女はシャクリ上げシャクリ上げしながら口惜しそうに説明し始めたのであった。
  101. 発作 ほっさ 发作。(病気の症状が突発的に起こること。) デプレッショ depression とにかく生理的のデブレッションから来る一種の発作的精神異常者なのです。
  102. 腹蔵 ふくぞう 隐藏,隐蔽。(本心を隠して表に出さないこと。) ところでこれは、お互いに名誉に関する事ですから御腹蔵なくお話下さらんと困りますが、昨晩、お取り調べの際にあの女は、何か僕の事に就いて話はしませんでしたか。
  103. 毛唐 けとう 洋人,洋鬼子。(「毛唐人」の略。) 外国人,特に欧米人を卑しめていう語。毛唐。 そのホテルでラルサンという毛唐と一緒に食事はしましたがね。
  104. ザラ 多得很,不稀罕,常见。(どこにでもあって珍しくないさま。ありふれているさま。) 所謂、貴婦人とか何とか言う連中の中には、あの程度のものがザラにいるでしょうが、犯罪を構成しないから吾々の手にかからないのでしょうな。
  105. 手回り てわり 身边,手头。 随身携带的东西。 あの娘が仕事を探しに行った留守に、預けて行った手廻りの包みの中を調べてみたら、どうでしょう。
  106. 切り抜く きりぬく 剪下,切下。(一部分を切って抜き取る。) 新しい小さな紙挾みの中に、あの『謎の女』の新聞記事が、幾通りも幾通りも切り抜いて仕舞って在るじゃあありませんか……いいえ。
  107. 尻を持ち込む 找上门来,追究责任。(関係者に問題を持ち込み責任を問い、解決を迫る。) 今にドンナ尻を持ち込まれるかと思ってビクビクしていたんですよ。
  108. 警官 けいかん 警察。(警察官の通称。) 
  109. 手玉に取る てだま 捉弄人,玩弄人。(手玉をもてあそぶように、人を思いどおりにあやつる。) 如何なる悪党、または如何なる芸術家も及ばない天才的な、自由自在な、可憐な、同時にたおれて止まぬ意気組を以て、冷厳、酷烈な現実と闘い抜いて来たか。K大病院、警視庁、神奈川県警察部、臼杵病院を手玉に取って来たか。
  110. 驚愕 きょうがく 惊愕,惊呆。非常惊讶,吃惊。 次から次へと騒動を起させながら音も香もなくトロトロと消え失せて行った腕前の如何に超人的なものであるかを想像させられて、私はいよいよ驚愕、長嘆(ちょうたん)させられてしまった。
  111. 承知 ちょうち 原谅,饶恕。(相手の事情などを理解して許すこと。多く下に打消しの語を伴って用いる。) 「喋舌ったら承知しないよ」と言って睨み付けた顔が、それこそ青鬼のように恐ろしかったので、今日まで黙っておりました……
  112. 貞操 ていそう 彼女は貞操の堕落にも多少の興味を持っていたらしい。
  113. 変名 へんめい 假名,化名,改名。(本名を隠して別の名を称すること。また、その名。へんみょう。) 彼女ほどのうそつきの名人がK大以来一度も変名を用いなかった心理も、ここまで考えて来ると想像が付いて来る。
  114. サクラ 小贩同伙。托儿。(縁日や盛り場の露店などで、客のふりをして品物をほめたり進んで買ったりしてお客の買い気をそそる役をする人。) その伯母さんなる中年婦人も、彼女と一緒に働いている有力な地下運動者の一人で、彼女の仕事に一段落を付けるべく、サクラとなって彼女を救い出しに来たものかも知れない、とさえ疑っているようであります。
  115. 換言 かんげん 換言すれば彼女に敬意を払い過ぎた観察とでも申しましょうか。
  116. 爪の垢 つめのあか 一点(小事)。(物事の少ないことのたとえに用いる語。) 小生等は彼女を爪の垢ほども憎んでおりません。
  117. 流転 るてん 流转,变迁。(流れ移ること。移り変わること。) 彼女が死んだ後までも小生等を抱き込んで行こうとしたうその流転も、それから貴下に対する小生の重大な責任もこの一文と共に完全に……何でもなく……アトカタもなく終焉を告げて行く事になります。

殺人リレー

  1. 車掌 しゃしょう 乘务员,列车员,车上售票员。(列車・電車・バスなどの車中で、車内の種々の事務を扱う者。) 女車掌になりたいって言う貴女の気もち、よくわかりましたわ。
  2. 百姓 ひゃくしょう 农民,庄稼人。(農業で生活している人。農民。) 百姓の生活はつまらない。
  3. 重役 じゅうやく 重要职位,重位;重任者。(責任の重い役目。大役。また、その人。) 董事,监事。 役員 やくいん 干部(一定の役を受け持つ人);干事。(団体などの。) 会社の重役さんとか、役員さんとか、自動車係りの巡査さんの言う事は、どんなにイヤな事でもおとなしく聞いて置かないと、直ぐに首になるのです。
  4. なるたけ 尽量,尽可能。 ですから賢い人はなるたけお白粉を塗らないようにして給料の上らないのは覚悟の前で、眼に立たないように、影にまわってばっかり働いているのです。その馬鹿馬鹿しい息苦しさったらないのですよ。
  5. 取締役 とりしまりやく 董事。所有股份公司都要有一个董事会,对内执行公司业务,对外就作为公司代表。董事就是其中成员。 代表取締役 董事长。 会社の工場に勤めている私のお父さんは、気が進まないけど、新高さんを可愛がっている会社の専務取締役の人が仲に立っているのでイヤとは言えないのだが、お前はドウかって尋ねられた時に、妾はすぐに承知してしまいました。
  6. 出し抜け だしぬけ 突然,冷不防,出其不意。(不意に事をすること、事が起こること。また、そのさま。いきなり。突然。唐突。) そうかと思うとダシヌケに、ヤンチャを言っているお客さんの子供を抱き上げて、頬擦りをしてキャッキャと笑わせたり、十銭で三つぐらいの一番たかいお蜜柑を一円ばかりも買って来て、黙って私たちにバラ撒いたままプイッと外へ出て行ってしまったりしてトテモ気まぐれな人なのです。
  7. 高が知れる たかがしれる 没有什么大不了的。(大したことはない。) タカの知れた女の子一匹です。広い世間の眼から見たら虫ケラ一匹のねうちも御座いますまい。
  8. 破裂 はれつ 妾は今、妾の人生が破裂しそうなくらい張り切っているのよ。
  9. 征服 せいふく 妾、新高さんにスッカリ征服されちゃったの。
  10. 小雨 こさめ 夜の九時頃よ。小雨が降って真暗だったわ。
  11. 形見 かたみ 纪念(品)。〔記念品。〕 遗物。〔遺品。〕 妾、タッタ今、死んだツヤ子さんの形見の手紙を焼いたばかりのところなの。
  12. 心中 しんじゅう 一同自杀,情死。(複数の者が一緒に死ぬこと。相愛の男女が合意の上で一緒に死ぬこと。) 「夫婦心中じゃないか」

火星の女

  1. 火星 かせい